鎌倉殿の時代(23)大姫入内問題の核心
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(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
外戚として朝廷の実権を握ろうとしたのか
今回は、大姫入内(じゅだい)問題について考えてみましょう。
平氏についで奥州藤原氏を滅ぼし、正二位右近衛大将をへて征夷大将軍に任じられた頼朝。武家の棟梁としての立場を確立すると、今度は長女の大姫を後鳥羽天皇の后(きさき)に入れようと考えはじめます。頼朝は、どのような政治的意図をもっていたのでしょう?
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天皇の外戚として朝廷の実権を握ろうとした、というのが古典的な解釈です。入内した大姫が皇子を生み、その子が皇位を継げば、頼朝は天皇の外祖父、つまりはおじいちゃんとなるわけです。
このように閨閥を利用して天皇を操る手法は、藤原摂関家や平氏がさんざんやってきたことです。貴族社会における政治力学の基本、といってもよいでしょう。もともと貴族社会の一員に生まれた頼朝は、武士たちを束ねながらも、結局は貴族社会の価値観の中に生きていた、というわけです。
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でも、この解釈に対しては重大な疑問があります。頼朝は、最初に上洛して右近衛大将・権大納言に任じられたとき、官職を返上して鎌倉に帰っています。自分は朝廷の中で出世を求めるつもりはないよ、という意思表示です。せっかくもらった征夷大将軍も、ほどなく返上しています。
自分の権力の源泉は、武士たちによって推戴される鎌倉のボス=鎌倉殿という立場にある。右近衛大将や征夷大将軍といった肩書きは、ハク付けや現状の追認でしかない。
そう考えていたからこそ、頼朝は内乱の間も鎌倉を動かず、京で栄達を求める道も選ばなかったのでしょう。だとしたら、天皇の外祖父として朝廷の実権を握ろうとした、という解釈は説得力がありません。
もう一つ、有力な解釈があります。大姫と後鳥羽の間に生まれた皇子を、次世代の鎌倉殿に迎えようとした、という説です。僕は、こちらに説得力を感じます。
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当時の頼朝は膨大な荘園・知行国などの利権を持っていました。平家方から没収した利権の多くが、頼朝のものとなっていたからです。
これらの資産群を安定して保持するためには、荘園領主や知行国主となれる高い身分が必要ですが(前回=第22回[https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70339]参照)、後鳥羽天皇の皇子であれば問題なく高い官位が与えられます。つまり、当時の土地制度や税制を踏まえて、鎌倉殿の地位と幕府の財政を安定させるためには、皇族を鎌倉殿とするのがベスト、という判断です。
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大姫の生んだ皇子を迎えるまでは、頼家を中継ぎとすることなども、考えていたかもしれません。ただ、閨閥を利用して朝廷の実権を握りたい貴族は、たくさんいますから、大姫入内を計画するとなると、どうしても貴族社会の政治力学に巻き込まれます。
頼朝としては、幕府安定のためのベストな策として大姫入内を考えたのでしょう。でも、田舎武士である御家人たちの多くは、朝廷の内情や国の制度・法体系のことなどよく知りません。幕府の組織を整えるために、京下りの文官たちを重用したことともあいまって、御家人たちの間に不満が生まれてゆきました。
「近頃の鎌倉殿は、京の方ばかり向いている」と。
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からの記事と詳細 ( 悲劇の姫、大姫を後鳥羽天皇に入内させようとした頼朝の本当の意図 鎌倉殿の時代(23)大姫入内問題の核心 - JBpress )
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壮大な
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