彼らはなぜ真逆の立場に立つこととなったのか、英誌「エコノミスト」が探る。
この記事は1回目/全3回
ボヘミアにやってきた日系一家
1896年の夏、ボヘミア西部の町ロンスペルクに、この町の城の新しい女主人がやって来た。彼女は、芸事の稽古を積んだ若い日本人女性で、1年前にオーストリア・ハンガリー帝国の進歩的な外交官と結婚し、クーデンホーフ=カレルギー光子「伯爵夫人」となっていた。
夫は東京での仕事を辞め、息子たちの教育のために故郷に戻ることに決めた。蒸気船と鉄道を使い、光子は夫のハインリッヒとともに日本からやってきた。2人の息子たちはハインリッヒのアルメニア人従者や乳母に連れられ、先にロンスペルクに到着した
このとき2歳だった長男のハンスは、後にこの城を相続するが、ナチス政権の協力者として投獄された。一方、1歳半だった次男のリヒャルトは後に“欧州連合(EU)の父”とされる人物になる。
14世紀の古文書ではロンスペルクはチェコの村として記されているが、1890年代にはドイツ語圏に属しており、イディッシュ語を話すユダヤ人も少数暮らしていた。
馬車は町に入ると坂を上り、シナゴーグと教会の前を通って城に到着した。ゴシック様式の要塞を17世紀に増改築し、バロック様式の城にした建物だ。光子は階段を上り、そこから景色を眺めた。果樹園や農場が見え、さらにその奥にバイエルン王国との国境も見えた。一族が狩猟に使う別邸は木々に隠れて見えなかった。
光子にとってこの地での暮らしは楽ではなかった。最初はドイツ語をほとんど話せず、地元の人にバカにされていると感じていた。一方、次男のリヒャルトはロンスペルクでの子供時代を「天国」だったと、自身の回顧録で記している。
リヒャルトは父親の書斎によく出入りしていた。哲学を研究する父親は、反ユダヤ主義や決闘を批判する文章などを書いており、城には異国からの客が訪れた。日本人の外交官を初め、イエズス会士やラビ、イスラム教の学者などだ。
彼は、ロンスペルクでの生活が自分の世界観を形作ったと後に語っている。ここでの経験から「ナショナリズムは血や人種の問題ではなく、教育の問題だ」と学んだというのだ。
ヨーロッパの右派に知れわたる「EUの父」
現代のヨーロッパで、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの名はあまり知られていない。しかし、彼は、欧州連合(EU)の創設における非常に重要な功労者だったと、彼の評伝を新たに上梓したイギリスの作家マーティン・ボンドは言う。
彼は、1923年にヨーロッパ合衆国の建設を説いた『パン・ヨーロッパ』というベストセラーを出版し、「汎ヨーロッパ連合」という運動を発足させた。その動きにはアルベルト・アインシュタインやトーマス・マンなど数千人が参加した。
一方、彼は、アドルフ・ヒトラーから「あのコスモポリタンのクソ野郎」と罵られたこともあった。映画『カサブランカ』に登場する、ナチスに追われるヴィクトル・ラズロという活動家のモデルに彼がなったともされる。
また、ウィンストン・チャーチルやシャルル・ド・ゴールに欧州連邦国家の建設を進言し、ベートーヴェンの『歓喜の歌』をそのシンボルの歌として定めるべきだと提言したのも彼だった。
そんなクーデンホーフ=カレルギーの名は、ヨーロッパの右派勢力によく知られている。ヨーロッパ各地の排外主義的ナショナリスト集団は、15年ほど前からクーデンホーフ=カレルギーを中心に据え、「カレルギー計画」という陰謀論をさかんに広めてきたのだ。
もし反移民を掲げるブルガリアの民兵組織の指導者たちに、なぜトルコからヨーロッパに難民が押し寄せるのかと聞けば、それがカレルギー計画の一部だからだという答えが戻ってくるだろう。
「フォー・ブリテン・ムーヴメント」というイギリスの極小政党の政治家も、カレルギー計画は白人大虐殺の企てだと語気を荒げて語り出す。イタリアのネオ・ファシスト集団が得意とする話題も、もこの陰謀論だ。
チェコの「日系」極右政治家
そして、カレルギーの育ったロンスペルクのあるチェコでも、極右政治家のトミオ・オカムラはクーデンホーフ=カレルギーの名を聞くと顔をしかめた。ロンスペルクの地名は、ポビェジョヴィツェという過去のチェコ語の地名に戻っている。
トミオ・オカムラはナショナリスト政党「自由と直接民主主義(SPD)」の党首で、クーデンホーフ=カレルギーは「自分たちがなりたくないもの」を体現していると述べる。
トミオ・オカムラは日本人の父親とチェコ人の母親の間に、東京で1972年に生まれた。両親の離婚後、母親に連れられて兄と弟とともにチェコに渡った。しかし、オカムラが育った環境は、同じく東京からチェコに渡ったクーデンホーフ=カレルギーとは異なり、厳しいものだった。
その後オカムラはアジアからの観光客を相手にした旅行代理店業で成功し、2000年代にテレビ番組にゲストとして出演し、知名度を上げた。チェコ文化の紹介の上手な快活なセールスマンである彼は自分の出自を重くとらえず、「自分は世界でたった一人の細い目のモラヴィア人」などと冗談を飛ばしていた。
そして2010年に上梓した著書『トミオ・オカムラ──チェコ・ドリーム』(未邦訳)はチェコでベストセラーとなり、その3年後に自分の政党を立ち上げた。
結党当初のオカムラは汚職を非難し、住民投票の実施を呼びかける政治家だった。
だが、しばらくすると方針転換し、イスラムとEUの批判に力を入れるようになった。難民を受け入れればヨーロッパに「サル由来の疫病が蔓延」すると発言したり、チェコのEU離脱の是非を問う国民投票を実施するように求めたりしたのだ。
興味深いことに、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーとトミオ・オカムラの2人は、この100年の欧州統合の歴史をブックエンドのように挟んでいる。
クーデンホーフ・カレルギーを批判する人たちは、日本人とのハーフがヨーロッパ諸国民の統合を呼びかけるなど、おせっかいも甚だしいと言う。
一方、オカムラを批判する人々は、なぜ彼のような生い立ちの人間が外国人を嫌悪できるのかと疑問を口にする。
なぜこの二人は欧州連合に関して、まったく反対の立場に身を置くことになったのか。二人の性格の違いに由来するのか、それとも歴史の方向性が変わったということなのか。(つづく)
からの記事と詳細 ( 欧州統合という壮大な夢を描いたのも、その夢に幕を引こうとするのも「東京生まれの日系人」という奇縁 | 100年の時を超えて重なり合う二人 - courrier.jp )
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壮大な
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