兵庫県姫路市飾磨区の飾磨駅を起点に、南部の工業地帯を走り山陽網干駅(同市網干区)まで結ぶ山陽電鉄の網干線。全長約8・5キロの短い支線には半世紀以上前、相生や赤穂、そして岡山まで延ばす壮大な計画があった-。当時のものとみられる古い図面が、山陽網干駅の北西、姫路市余部区にある下余部公民館に保管されているという。謎の図面と幻に終わった山電相生・赤穂延伸計画との関連はいかに-。(山本 晃)
図面は10年以上前、下余部在住の山田正典さん(77)が、公民館内の整理中に見つけた。
「この赤いのが線路やわ」。山田さんが全長約2メートルもある長い図面を広げ、余部一帯の地図に記された赤い帯を指さす。これが延伸する線路の位置を示しているという。
目を凝らしてみると、揖保川に沿って北西へ延びる帯の周囲には、曲線の具合などを示す数字や、踏切の名称などが細かく記されている。そして、現在の網干線から分岐する付近には「網干-赤穂間線路起点」の文字が書き込まれている。ほぼ延伸計画の図面とみて間違いないだろう。
念のため、神戸にある山電本社に尋ねてみた。「当社が作成した図面の可能性が高いが、どうして社外にあるのか…」。半世紀以上前の構想だけに、詳しい経緯までは謎のままだった。
図面では、同区の上余部、下余部地区にそれぞれ駅が設けられ、揖保川と林田川が分岐するエリアには、車両基地とみられる施設も記されている。山田さんは「電車が走っていれば、この辺の景色も全く違うものになっていたはず」と、幻の鉄路に思いをはせる。
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山電の西播磨進出は戦前から構想されていた。1928(昭和3)年には、前身の宇治川電気が飾磨-岡山間の敷設免許を申請し、赤穂までの建設が認められている。姫路臨海部の広畑地区での製鉄所建設に関連して、飾磨-網干間が41年までに順次開通した。
網干以西の延伸計画は、戦後に復活する。52年に許可された路線敷設の免許状には「網干区新在家から赤穂市上仮屋」までと記された。下余部で保管されてきた図面は、表記などから、この赤穂延伸計画時のものと思われる。
延伸に関連し、相生市では公聴会も開かれたという。結局、沿線の発展が思うように進まなかったことなどから、計画は70年代までに正式に取りやめに。網干から先へ線路が延びることはなく、計画は幻となった。
■予定地に計画の名残なく
下余部公民館に残る謎の図面。戦後の山電延伸計画である可能性が高いが、予定地は今、どうなっているのだろうか。鉄道好きの記者が、ちょっぴりマニアックな視点で歩いてみた。
予定線は現在の山陽網干駅の東数百メートルで網干線から分岐する。高架に上がり、現在の同駅から約200メートル北に新駅(当時は「電鉄網干駅」)が設けられるはずだった。網干市民センターの西側、「市民センター前」の交差点付近だ。
しばらく新旧の住宅が混在する地域を進む。「下余部駅」の計画地付近にはスーパーマーケットなどが立ち並び、買い物客でにぎわっていた。さらに約300メートル進むと、JR山陽線と臨海部を結んだ貨物線、北沢産業網干鉄道(廃線)の下をくぐる地点にたどり着く。ただし、同鉄道の廃線跡には住宅や公園が整備され、両線の名残を確認することはできなくなっている。
予定線は揖保川に沿うように北西へ。余部小学校や「上余部駅」を設けるはずだった付近は、今も田園風景が残っていた。図面は同駅の先、車両基地を経て林田川を渡る地点で途切れるが、周辺の地形などから、線路は川を渡った後、揖保川町を経て相生を目指したと推察できる。
最後に車両基地の予定地を訪れた。一帯は空き地で、山田さんによると「最近まで山電が土地を持っていたらしい」。図面では余部区と太子町にまたがり、線路が十数本記されている。今の網干線は飾磨-網干間を往復する電車のみが走るが、延伸が実現していれば、神戸や大阪方面との直通便が通年運行され、幻の車庫にも多くの車両が止められていたかもしれない。
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