【ソウル=豊浦潤一】25日死去した
李健煕氏は、学生時代から、日本の進んだ技術に触れていた。日本で孤独な留学生活を送っていた頃、「新しく出た電子製品を買ってじっくり観察するのが趣味だった」(自著「李健煕エッセー」)という。
最大の功績は、創業者の父や経営陣が「テレビもまともに作れない有りさまなのに」と反対するのを押し切り、半導体事業への進出を決めたことだ。
オイルショック直後の1974年、「韓国半導体」という会社が経営難に直面し、李健煕氏は、私費を投じて買収へと動いた。
その後、ほぼ毎週、日本を訪れては半導体技術者に会った。日本での生活経験が豊富で日本語も堪能だった。自著によると、日本の技術者を会社に秘密で土曜日に韓国に連れて行ってサムスンの技術者たちに徹夜で技術を伝授させ、日曜日に帰すことも多かったという。
その結果、半導体はサムスンの主力事業に育った。日米の半導体メーカーを追撃し、90年代前半にはメモリー分野で世界シェアのトップに立った。
しかし、同じ93年、サムスン顧問だった福田民郎氏(現・京都工芸繊維大学名誉教授)の報告書に「社員の働き方や製品のデザインの水準は平均以下で、このままでは競争に勝てない」との分析があるのを見て、がくぜんとした。思い当たるふしもあった。直前に米ロサンゼルスのスーパーで見たサムスン製品は、売り場の隅でほこりをかぶっていたのだ。
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