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Tuesday, May 5, 2020

中国と日本の考古学者が追う「キトラ古墳」の謎と国家の陰謀。壮大なサイエンスミステリ『キトラ・ボックス』 | 「レビュー(本・小説)」 - カドブン

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(評者:渡部わたなべ 潤一じゅんいち / 天文学者)

 池澤夏樹氏の作品との出会いは偶然だった。私が勤める国立天文台(当時は東京大学東京天文台)の食堂での職場の仲間との雑談で、なんでも「チェレンコフ光」が出てくる小説がある、と聞かされたのだ。チェレンコフ光? そんな一部の研究者しか知らないような専門的な現象の言葉を、いったいどんなふうに小説に仕立てるのだろう。こうして出会ったのが、後に芥川賞を獲ることになる池澤夏樹氏の代表作「スティル・ライフ」である。冒頭の一部分はこうだ。

彼は手に持った水のグラスの中をじっと見ていた。水の中の何かを見ていたのではなく、グラスの向うを透かして見ていたのでもない。透明な水そのものを見ているようだった。「何を見ている?」とぼくは聞いた。「ひょっとしてチェレンコフ光が見えないかと思って」

 一万年に一度の確率でしか見えそうにない、と続く。それにしてもチェレンコフ光である。ニュートリノなどの極微粒子が、水の中に含まれる水素の陽子に衝突し、発光する現象なのだが、確率的にも、光量的にも、時間的にも(ほんの一瞬なので人間の目には捉えられない)どうやっても見えるはずはない。そして、プロローグとしてのバーを舞台にしたやりとりは、特にドラマチックな展開でもロマンチックな展開でもなかった。そのまま静かに会話が続き、それこそスティル(静か)なストーリーとなって流れていく。現代の社会を描いているのに、なんだか異世界のような静けさだ。もちろん小説だから、論理的なつながりと共に意外な展開もある。この場合もチェレンコフ光を見ていた人物は実は業務上横領を犯した過去があり、時効を迎える直前に、その埋め合わせにつきあわされる主人公という設定が明らかになってくる。しかし、その展開さえダイナミックではなく、とてもスティルなのだ。それよりもなによりも私が気になったのは、所々にチェレンコフ光と同様、通常の小説ではあり得ない単位や言葉が現れることだ。例えば、次のバーのシーンでの会話には「計画は山ほどある。寿命が千年くらいあったら、はじから実行に移す」、ハトを眺めるシーンでは「数千万年の延々たる時空を飛ぶ永遠のハトの代表」、「数千光年の彼方から、ハトを見ている自分を鳥瞰していた」。極めつけは、天体写真集の購入を頼まれた主人公が、それをスライドにしているのを眺めながら、望遠鏡を買って自分で撮影するのを勧めたシーンだ。

「(前略) 望遠鏡は大口径の方がいいだろうし、シーイングの良いところを探して田舎に家を作るとか、話がだんだん大きくなってしまう。遊びが仕事みたいになる」

 シーイングという言葉は、天文学上で大気の揺らぎの状態を言う専門用語だ。天文ファン以外にいったいどれだけの読者が理解できるのか、疑問である。もちろん、小説の真髄はこうした言葉そのものにあるわけではないが、どうにも気になってしまう。この作家はサイエンスの素養を持つに違いない、と思った。実際、埼玉大学理工学部物理学科に入学しているので、大いに興味はあるのだろう。

 その後、JTBの「旅」という雑誌に池澤夏樹氏の連載が掲載された。各地の面白そうなところに旅をするエッセイだった。その中の訪問先に岐阜・長野にまたがる乗鞍岳のりくらだけが選ばれたことがあった。そこで彼が向かったのは山頂ではなく、山頂付近に設置された国立天文台乗鞍コロナ観測所と、東京大学宇宙線研究所の乗鞍観測所だった。太陽コロナの観測用の天体望遠鏡を中心にした天体ドーム内部の整然とした様子と、宇宙線を捉えるために電気回路がむき出しで、ケーブル類が這い回っている雑然とした様子との対照を、見事に際立たせていたことを覚えている。その後、南鳥島からサハリンまで足を延ばし、そこにある自然、地理、気象などに歴史や文化を重ね合わせて12の場所を旅人として満喫している。この連載は後に「南鳥島特別航路」としてまとめられているのだが、そこに掲載されている写真も池澤夏樹氏本人の撮影によるものである。ちなみに、この連載で赴いた沖縄に魅せられたように、池澤夏樹氏は1994年には沖縄に移住している。

 こうして私は旅好き、そして星を始めとする自然など理系的な感性を含めた文章を綴る池澤夏樹氏に親近感を抱くようになった。実は私も「旅」で日本旅行記賞をもらったことがある。私自身は足場を学問の世界に置きつつ、旅を楽しみ、おりおり筆を執って文章を綴るようになっていったこともあり、池澤氏の感性は私に非常にマッチしていた。その最たるものは「ハワイイ紀行」であった。通常の日本人がホノルルの雰囲気だけで終わってしまうハワイイ(ハワイではないところも筋が通っている)について、深く掘り下げた珠玉の一冊である。主にハワイイの歴史、文化、生活などを現地の人のライフスタイルを紹介しながら展開している。ちょうどわれわれ国立天文台が、ハワイ島のマウナケア山頂に口径8mの大型望遠鏡を建設しようとしている時期と重なり、文庫化されたときにはマウナケア山頂の章も追加されている。

 そんな池澤氏がキトラ古墳をモチーフにした小説を書いた。冒頭から、これまでのような静かな調子とはまったく異なり、スピーディで躍動感あふれるストーリー展開を見せる。キトラ古墳の盗掘のシーンから、実際には見つかっていない銅剣と鏡とを登場させる。そして一挙に時間が現代へと飛び、考古学者・藤波三次郎による調査に、中国の新疆しんきょうウイグル自治区からやってきた研究員の可敦カトウンが加わり、ダイナミックに物語が展開していく。この過程で、ご神体として祀られていた鏡(禽獣葡萄鏡)が、トルファンにも、瀬戸内せとうち大三島おおみしまにもあること、おそらく同じ鋳型で造られたであろうことに行き着く。同時に同じくご神体であった銅剣に象嵌ぞうがんされた北斗が、キトラ古墳の天井に描かれた天文図のものと同じであることも判明する。こうした考古学研究が進展し、ご神体がキトラ古墳と結びつけられていく様子そのものも、池澤氏の得意とするサイエンスミステリーとして十分に面白いのだが、それに並行して新疆ウイグル自治区分離独立運動に関わる兄を巡って、可敦が追跡されるという社会派ミステリーの要素を加えている。ここには三次郎の昔の恋人であり、前作の『アトミック・ボックス』での主役だった女性社会学者・宮本美汐や、同じく『アトミック・ボックス』で警視庁公安部の捜査官だった郵便局員・行田安治等を登場させることで、ストーリーが重層的となり、はらはらさせながら読者を捉えて離さない。

 その間、サイエンスの側面では、どうしてウイグルと瀬戸内、そして奈良と3ヶ所に同じ鏡があるのかが種明かしされる。中国に遣唐使として渡り、壬申の乱の最大の功労者でもある高市皇子が、ウイグルからやってきたヤグラカルと出会い、共に日本に向かうストーリーで、キトラ古墳の被葬者を設定している。その出だしは墓の中で、天井の天文図を見上げているシーンではじまる。そしてその星空を「一緒に見た長安の夜空の星だ」と語らせている。

 ご存じのようにキトラ古墳の天文図は、東アジアでも最古の精緻なものである。太陽の通り道である黄道はもちろん、地平線ぎりぎりに見える星座を示す大きな円(外規)や、一年中地平線の下に沈まない、周極星と呼ばれる星座の範囲を示す小さな円(内規)も描かれている。また、星々も丸印で無数に描かれており、古代中国流にそれらの星が線で結ばれ、星座をなしている。これらの情報から、これまで何人もの天文学者が、オリジナルの天文図が描かれた場所や時代について研究を重ねてきた。当初は紀元前65年あたりに、かなり高い緯度、北緯38度付近で描かれたとされたが、最新の研究では時代が下って西暦300年頃、北緯34度付近と推定されている。前者は高句麗の都・平壌あたり、後者だと長安や洛陽付近となり、池澤氏の設定は後者の説に立っているといえる。

 いずれの説に立つにせよ、池澤氏はサイエンスミステリーの種明かしを小説の途中に挿入した。社会派ミステリーとしての軸でも中国のチベット・ウイグル独立運動を背景にしているため、このサイエンスミステリーの部分はどこかで先に種明かししておかないと読者が疲れてしまうだろう、という配慮なのかもしれない。ここでも時代は一挙に現代から奈良時代に飛び、そして再び現代へと帰ってくる。ミステリーの要素がサイエンスと社会と複層的なだけではなく、描かれる時代も飛鳥時代―現代、そして地理的にもトルファン―瀬戸内―奈良とストーリーが自由自在に飛び回っている。

 一方、社会派ミステリーの側面では、最後まで種明かしをしていない。伏線としてあちこちに可敦の言葉(呟き)を散りばめておき、また女性社会学者に最後まで可敦への疑いを持たせておく。そして最終盤、キトラ古墳の画期的研究についての記者会見後、開催された祝賀パーティでの逆転劇こそ、ミステリーの醍醐味でもある。ハードなミステリー小説では、しばしば後味の悪さが残るが、池澤氏はハッピーエンドで終わらせている。初期の静謐な作品群とは、また異なる池澤氏のダイナミックな文章の魅力がサイエンスや歴史のロマンと相まって溢れ出た作品といえるだろう。私の知らない池澤文学の深さを思い知らされた。

 考えてみると、池澤氏の筆は、まるで多次元空間を飛び回る魔法のようだ。時間軸では飛鳥時代―現代、空間軸ではトルファン―瀬戸内―奈良、そして内容の軸では社会問題と考古学というサイエンス。そして、もうひとつ、シリーズという軸である。『アトミック・ボックス』に続いて、登場人物の一部が再登場している。どちらにも共通しているのは、政府権力とそれに対峙する構図である。その意味では第三作があるのかもしれない。今度はなにをボックスに仕立てるのか、期待したい。

池澤夏樹『キトラ・ボックス』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321812000065/


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May 04, 2020 at 08:02PM
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