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Sunday, December 25, 2022

【アントニオ猪木さん追悼逸話(5)】旧ソ連と“プロレス外交” 誰 ... - 中日新聞

世界規模の発想で世間を驚かせた猪木さん。引退試合でも全盛時を思えせるコブラツイストを決め、観客をびっくりさせた=1998年、東京ドームで

世界規模の発想で世間を驚かせた猪木さん。引退試合でも全盛時を思えせるコブラツイストを決め、観客をびっくりさせた=1998年、東京ドームで

◆門馬忠雄の昭和プロレス絵巻◆

 ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのが、今年の2月。その33年前、猪木さんは当時のソ連と、プロレスを通じた外交に乗り出していた。今思えば、世界平和への壮大な取り組みを先取りしていたといえる。

 ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカ政策で民主主義への移行や情報公開を進めていた。そのひとつが、スポーツ選手の海外派遣だった。1989年の正月ごろだったと思う。猪木さんは、たまたまテレビ局で会ったわたしに、「ソ連に強いプロレスラーがいたろう。誰だったっけ」と聞いてきた。それは、19世紀末から20世紀初頭にかけて大活躍した“ロシアのライオン”ジョージ・ハッケンシュミットのことだったのだが、とっさのことに、わたしは「なぜこんなことを聞くのだろう」と思っただけで、即答できなかった。

 実はその前年、猪木さんはモスクワに飛び、ソ連の国家スポーツ委員会の幹部と会って、ひそかにレスリング選手のスカウトにあたっていた。わたしは猪木さんがくれたヒントに気づかず、スクープを逃してしまった。

 89年4月、新日本は東京ドームにソ連の柔道五輪金メダリスト、ショータ・チョチョシビリやレスリングの世界選手権フリースタイル100キロ超級4度制覇のサルマン・ハシミコフら“レッドブル軍団”を呼んで大会を開催。そして大みそか、今度は日本からモスクワに遠征し、当地で初めてプロレスの大会を行った。先のスクープ逃しの件があったから、わたしは自費で取材に行った。

 レーニン室内競技場に1万2000人(主催者発表)が集まった。観客席とリングには距離があり、しかも照明が薄暗かった。猪木さんはメインでチョチョシビリと組み、タッグマッチを行った。観客の反応が分からず、試合そのものは無味乾燥なものに感じた。だが、この大会は開催することに意味があった。事故もなく、無事に終了。成功を祝って年越しパーティーも開かれた。猪木さんはモスクワ市長やスポーツ委員会幹部らとウオッカの飲み比べをし、大いに酔っぱらった。

 その後、ソ連のアマチュア選手のプロ転向は、ボクシングにも波及。また、前田日明の引退試合にレスリング五輪3連覇のアレクサンドル・カレリンが出場するなど、プロスポーツ興行に変化し、平和の象徴になった。

 猪木さんの発想は世界規模だった。今のロシア・ウクライナ情勢は、いつ終わるのか予測もつかない。誰よりも世界平和を願った猪木さんは、天国で終息を待ち望んでいるにちがいない。

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