野球の魅了にとりつかれたある日本人男性の情熱が、アフリカの地で好感をもって受け入れられ、元メジャーリーガー松井秀喜氏の協力も得て「アフリカ甲子園」として結実しようとしている。その熱源である友成晋也氏に、荒唐無稽な計画のすべて、そして灼熱の大地で野球が受け入れられた理由を尋ねた。
荒唐無稽なプロジェクトのきっかけ
俳句甲子園、溶接甲子園、田舎力甲子園——。
気づけば世の中、甲子園だらけ。だが、これほど壮大なスケールの甲子園はないはずだ。昨年11月から動き出した「アフリカ甲子園」である。
正式名称は「アフリカ55甲子園プロジェクト」。
これはJ-ABS(一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構)がアフリカ55のすべての国と地域で全国野球大会を開催し、野球を通じての青少年の育成を目指すというもの。現役時代、背番号55をつけて日米で活躍した松井秀喜氏も趣旨に賛同し、「一緒にアフリカの野球を応援しましょう」と呼びかけた。
野球が盛んではないアフリカで甲子園を、つまり野球の全国大会を開催するという、奇想天外、荒唐無稽なプロジェクト。それはひとりの野球狂の、地を這うような活動から生まれた。J-ABS代表理事を務める、友成晋也さんのことである。
元JICA(国際協力事業団)職員でもある友成さんは過去25年間、ガーナ、タンザニア、南スーダンなどで野球の普及、強化に携わってきた。
慶応義塾大学時代、体育会野球部の一員として日本一を目指した彼は、1996年に赴任したガーナでたまたま現地人チームと日本人チームの試合に参加。気がつけばガーナ・ナショナルチームの監督になってしまった 、“激レアさん”なのだ。
友成さんはその後、タンザニアで野球連盟を設立し、全国大会「タンザニア甲子園」を開催。2011年に生まれた“世界一若い国”南スーダンでも、混乱した国情の中で野球連盟を立ち上げるなど、数々の実績を残してきた。
アフリカ甲子園の発想が生まれたのは2011年、それはタンザニアに赴任する前年のことだった。
「1996年から99年まで携わった、ガーナの野球がどうなっているか見に行ったところ、まだ続いていました。当時は、空腹の選手のためにパンを用意したり、お金にならない野球に反対する選手の親や上司を説得したりと試行錯誤をしたわけですが、あれから10数年が経ち、私が教えた少年たちが20代半ばになりコーチになって後進を育ててくれていたのです」
うれしくなった友成さんは、ガーナで全国大会をやろうと言い出した。アフリカ甲子園の雛型である。その根底には喜びと同時に、強い危機感があった。
「当時、私は野球の未来に危機感を抱いていました。というのも08年北京を最後に、野球が五輪から外されてしまったからです。ガーナでメジャーではない野球に予算がつくのは、五輪競技だから。でも五輪競技でなくなると予算はつかず、少年たちの目標も消えてしまった。“このままでは野球は死んでしまう”、そうしたガーナの仲間の声もあって、五輪に代わる新たな目標としてガーナ甲子園をやろうと思ったのです」
青少年の育成に野球が果たす役割
手始めに友成さんの教え子たちが首都アクラ近郊の学校を巡回して普及を始め、10校近くで野球チームが誕生。それから1年後、各校をヒヤリング調査したところ、多くの校長から思わぬ反応が返ってきた。
「あなたがミスター友成か! ありがとう!」
ありがとう? 目を白黒させていると、校長はこう続けるのだ。
「野球をする子は成績が良くなって、時間も守るし、リーダーシップを発揮してみんなの模範になっているんだ」
友成さんが、そのときのことを振り返る。
「そんな効果が出るとは思ってもみませんでした。でも考えてみたら、キャッチボールのときにはグラウンドに2列に並び、試合前後にはベンチ前に並んで相手に一礼をする。最初の頃は、それすらやるのに時間がかかったわけですから」
友成さんが赴任したとき、ガーナでは細々とキューバ由来の野球が行なわれていた。だが次の赴任先タンザニアは、文字通り野球不毛の地。それでもガーナでの経験によって、友成さんには自信が湧いてきた。
「そうだ、野球をすることで子どもたちは規律、尊重、正義の心を学ぶ。このことをアピールすればいいじゃないか!」
タンザニアに赴任した友成さんは早速、スポーツ庁のような機関でいくつか学校を紹介してもらい、学校巡りを始めた。
学校で校長に会うたびに、友成さんはこう切り出す。
――ここの学校の目標はなんですか?
「それはもちろん進学率を高めることだよ」
――なるほど。実はガーナでこういう事例がありまして……。
「ほう、野球というスポーツにはそんな力があるのか。ではウチの学校に野球クラブをつくってくれないか」
友成さんは「青少年育成のツール」として、野球を売り出したのだ。
念のため書くが、野球の普及はJICA職員である友成さんの本業ではない。だれに頼まれたわけでもなく、見返りを求めるどころか持ち出しだらけでやっている、余暇の活動に過ぎない。友成さんは野球というゲームの素晴らしさを広めたくて仕方がない。不毛の地になるほど闘志が湧き上がってくるのだから、これはもうホンモノである。
タンザニアでの野球のプレゼン、果たしてそれは上手くいった。
ガーナでそうだったように、子どもたちは野球を通じてきびきび行動するようになり、時間を守るようになった。勉強にも一生懸命打ち込むようになった。
この学校は首都ダレスサラームの老舗の進学校で、野球という新たな取り組みが周りから注目されていたこともあって、次第に野球の“効能”が伝えられていったのである。
「アフリカというと、まず時間を守らない。私もそれで長く悩まされましたが、タンザニアの先生たちも生徒には規律を植えつけたいわけですよ。で、どうするかというと鞭(むち)を振るう。ヨーロッパ人が先住民を奴隷化したころの名残りなのか、西アフリカでも東アフリカでも鞭が浸透しているんです。そんなところに東洋人がやってきて、野球というスポーツを始めたら遅刻がなくなり、規律正しくなった。先生たちにしてみたら、衝撃だったと思います。アフリカで人気があるサッカーと違って、野球は一球一球、間があるので指導しやすい。そういう特性を生かした指導が良かったのだと思います」
友成さんはタンザニアの地方で活動するJICA協力隊と連携し、あちこちで野球の普及を始めた。そして赴任後わずか2年にして全国大会が、つまりタンザニア甲子園が開催されるまでになった。
JICAには海外赴任最長3年という決まりがあるため、友成さんは15年にタンザニアを離任したが、その後も甲子園は続き、コロナ禍でも継続。昨年は12校が参加し、第10回記念大会となる今年は、さらに出場校が増える見込みだ。
防弾チョッキを着たままの野球プレゼン
さて、3つ目の赴任地が南スーダンになると聞き、友成さんは少し考え込んだ。なにしろ、この国では血を血で洗う民族紛争の真っ只中。友成さんが赴任した18年は少し落ち着いてきていたが、JICA職員は外出にあたって防弾車に乗らなければならないというローカルルールが生きていた。
気楽に街に出られるような状況にはなかったが、これであきらめるような友成さんではない。
あるとき防弾車で市内を視察していると、立派なグラウンドを見つけた。ガーナでもタンザニアでも、石ころだらけの原っぱのようなグラウンドで野球をしてきたが、それにしてもなぜ紛争地の南スーダンにきれいなグラウンドがあるのか。尋ねてみると、そこは伝統あるジュバ大学のグラウンドで、PKOにやってきた自衛隊が整備したのだという。
「これはいいじゃないか!」
さっそく週末、防弾車でグラウンドに行ってみると、木陰のベンチに横たわる3人の若者たちがいた。暑いから寝ているのだという。
「きみたち、若いんだから身体を動かさないか? キャッチボールっていうのがあるんだ!」
そう言って友成さんは、防弾車に載せていたグローブとボールを持ってきた。これが“布教”の奥の手、ゲリラキャッチボール。タンザニア時代から友成さんは、いつでもキャッチボールができるように、車にグローブとボールを積んでいるのだ。
ひとしきりキャッチボールをして、「じゃあ、来週末またやろう!」。
娯楽が少ないこともあって、週末のたびにキャッチボールの輪は大きくなっていく。やがて野球チームが生まれた。
タンザニアでもそうしたように、南スーダンでも友成さんは野球連盟を立ち上げた。連盟があることで予算がつき、政財界からの支援も受けられるからだ。
3年の任期満了の直前になって南スーダン野球連盟は立ち上がったが、設立総会は忘れられない思い出になった。
「連盟の設立総会では記念撮影が行なわれ、2番目に大きなヌエル族の会長が最大勢力ディンカ族の事務総長と握手をする。それは歴史的な瞬間でした。民族対立が激しいため、暫定政権すらなかなか樹立しない中、野球界は民族の壁を乗り越えてまとまったからです。野球には平和をつくる力がある! そのことを実感したのです」
前述したように、今年12月開催予定のタンザニア甲子園には第10回記念枠として、外国チームの招待が予定されている。そのチームはどこか、友成さんの頭の中ではすでに決まっている。南スーダン代表チームだ。もちろん、多民族混成チーム。想像するだけでワクワクしてくるという。
友成さんが熱く語る。
「アフリカは貧しく、病気や事故、不正などが絶えませんが、それらを克服するためには正義や規律、尊重の精神を持つ人材を育成するしかありません。日本の野球には、それができる力がある。貧しいといっても、アフリカの経済は急速に成長していて、人口も増えています。少子高齢化が進む日本が今後社会を維持するためにも、アフリカとの関係づくりは重要だと思う。そうしたとき、“自分は日本の野球で育てられた”と日本に親しみを持ってくれる人々の存在は、大きな意味を持つことになると思う」
荒唐無稽、奇想天外なアフリカ甲子園。しかし、友成さんの蒔(ま)いた種は着実に芽を出し、幹へと育ちつつあるのだ。
バナー写真:赤土のアフリカらしいグラウンドで真剣にプレーするタンザニアの選手たち 友成氏提供
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壮大な
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