さる3月22日、私はグローバルダイニングの代理人(弁護団長)として、東京都が発出した営業時間短縮命令とその根拠となるコロナ特措法が違憲・違法であるという訴訟を提起しました。
そこで本稿では、私たちが一体何と闘おうとしているかを、いわゆる法的論点とは違った切り口で論じたいと思います。なぜなら、訴訟の場で法的言語に翻訳される「主張」や「立証」だけでは、この訴訟で我々が闘おうとしているもののほんの一部だけしか捉えられないからです。
ナビゲーターは4人、キーワードは「あいまいさ」
本稿には、4人のナビゲーターに登場してもらいます。いずれも日本を代表する作家である、夏目漱石、川端康成、三島由紀夫、そして大江健三郎の4人です。キーワードは「あいまいさ」です。
私は、戦後の日本では この国特有の「あいまいさ」が、社会に本当の意味での民主主義と法の支配を定着させることを拒んできたと考えています。そして、今次のコロナ禍における、国会やジャーナリズムの議論の説得力なき脆弱さ、また政府の各種措置における法の根拠の薄弱さから生じる危うさは、まさしく「あいまいな日本」の可視化に他なりません。
こうした状況を、私は良しとはしません。日本社会と私たち日本社会に生きる市民は、帰路に立たされているのです。そして、それこそが上記の提訴に踏み切った大きな背景です。
「美しい」日本のわたしと「あいまいな」日本のわたし
「あいまいさ」の最初のナビゲーターとして、1994年に日本人として2人目のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎に登場してもらいましょう。
彼はスウェーデンで開かれた授賞式で、日本人と日本社会の本質を捉えるスピーチをしました。タイトルは「あいまいな日本の私」。このスピーチで大江は、約30年前に同じスウェーデンの地で殊勲された日本人文学者に言及します。川端康成。二人目のナビゲーターです。
川端は1968年、ノーベル文学賞を受賞し、その授賞演説で「美しい日本の私」と題する講演を、“現代の私たちが聞いても難解な日本語で”行いました。川端は、道元や明恵といった古(いにしえ)の禅僧らが、月や雪といった自然を「友」のように思いやる、言葉にし難い心情と神秘体験を、「日本人の心の歌」として紹介します。大江はこの演説を引き、川端が「美しい日本の私」を導き出すのに、禅僧が歌によってしか表現できなかった「共有不能」で「内向き」な神秘体験をもってしか表現できなかった点で、外界との接続をシャットアウトしていると評論します。まるで“鎖国”のように、徹底的に「閉じる」ことで、「美しい日本のわたし」を導いているというのです。
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壮大な
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